クリスマスはなぜ12月25日になったの?

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 毎年12月25日に日本でも盛大クリスマスというとキリスト教の開祖であるイエス・キリストの誕生日であることは、キリスト教徒の少ない日本でも常識だといっていいと思います。

本当はいつ生まれたかわからないイエス

 でも、本当にイエスがいつ生まれたかは、実ははっきりしたことは分からないのです。聖書のどこにもイエスの生年月日に関する記述はなく、また聖書以外に日本でいえば戸籍や住民票のような同時代のイエスに関する記録も存在しないためです。
そのためイエスキリストは自分の教えを代弁させるために聖書の作者が創作した架空の人物だとという説を唱えている学者もいますが、その一方で聖書の記述をもとにいつイエスの生まれたか推定しようとした学者も大勢います。

イエスの誕生

 聖書によると、当時、イエスの生まれたパレスティナの地はローマ帝国によって任命されたヘロデ大王によって支配されていたのですが、イエスが生まれたのと時を同じくして東から占星術の学者たちが、新たな「ユダヤ人の王」が生まれたことがわかったと首都エルサレムに尋ねてきました。
そして彼らよりこの話を聞いて、新たな「ユダヤ人の王」が自分にとって代わるかもしれないと疑心暗鬼にかられたヘロデ大王は、その「ユダヤ人の王」がベツヘレムに生まれたことをつきとめ、ベツヘレム周辺の2歳以下の男子を虐殺することを命じました。
この時、イエスとその家族は天使に促されるままにエジプトへと逃れたため、虐殺を免れることがで来たのですが、さらに安全のためにヘロデが没するまでそちらで過ごしていたということです。
この話はイエスがいつ生まれたか知るのにとても重要です。これでイエスはヘロデ大王が亡くなる前に生まれていて、しかも亡くなったあとで3歳になったことが確定できるのです。ヘロデ大王が亡くなったの紀元前4年であることは突き止められているので、紀元前4年~紀元前7年の間ということは学者の間でも意見の一致を見ているようです。つまりイエスが生まれたのは西暦1年より4年から7年程度前になるということです。

エクシグスが決めた西暦の始まり

 しかし、少し歴史に詳しい人なら西暦1年はキリストが生まれた年を起点に決められたということを知っています。日本ならば弥生時代の後期、中国ならば漢王朝に当たる古代の事と言っても、これはおかしいですよね。
最初に西暦1年を決めたのはディオニュシウス・エクシグウス(470年頃-544年頃)という今のブルガリアのドブルジャに生まれたキリスト教の神学者です。
イエスが十字架に掛けられて亡くなった後に復活したことを祝う復活祭(イースター)が、実はキリスト教にとって一番重要な行事なのですが、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(227年-337年)がキリスト教を公認した際に教義や行事の帝国内での統一を図るために325年に各地の教会の司教を招集したとき、この復活祭をいつ行うかが重要な議題の一つになりました。それで後で第一回ニケア公会議と呼ばれることになるこの会議において「3月21日から満月の日を過ぎたあとの最初の日曜日」と月の運行を元にして決めることが決定されました。
でもヨーロッパ世界ではローマ帝国の支配によって当時すでにユリウス暦と呼ばれるユリウス・カエサルが作った太陽暦を使っていたために、月の運行と太陽の運行がかみ合わず、どうしても月の運行に合わせた復活祭は毎年移動する祝日になってしまいます。現在はグレゴリオ暦と言われるユリウス暦に太陽の運行から見て更に精度の高い暦がヨーロッパ世界を含む世界全体で使われていますが、復活祭は今でも移動する祝日になっています。そしてキリスト教の行事は復活祭から何日目というふうにいつ行うか決まっていたので、正確な復活祭の日を求めそれを記載した教会暦をつくることはキリスト教徒にとって大きな問題になっていたのです。
エクシグウスはいくつかの発見を行い、より正確な教会暦を提唱したのですが、その中で年の起点を何にするかという問題が持ち上がってきました。
ユリウス暦ではうるう年や歴法と呼ばれる暦の計算方法は決めていましたが、何年を起点として年を計算するかを定めた記年法を使うかは決めていなかったので、ローマ帝国建国(紀元前753年)を元年とするローマ帝国歴や、歴代ローマ皇帝の即位を元年とする元号など、古代ヨーロッパの人は統一されることなくいろいろな記年法を使っていました。
でも、西ローマ帝国の滅亡とキリスト教の普及とともにヨーロッパ世界ではキリスト教徒を迫害したローマ皇帝ディオクレティアヌスのキリスト教徒迫害によって多くの殉教者が出たことを祈念し、ディオクレティアヌス帝の即位した年(284年)を起点とするディオクレティアヌス紀元が使われるようになってきました。
しかしエクシグウスはこのキリスト教徒を迫害したことで悪名高いディオクレティアヌス帝の名前を教会歴に残すことに反対し代わりにイエスの生誕の年を紀元1年とすることを提案しました。そこでエクシグウスは、十字架にかかった後にイエスが復活したのが3月25日日曜日で、その時イエスが30歳だったという当時の最新の聖書研究の成果をもとに算出したイエスが誕生した次の年を紀元1年として確定しました。それは525年のことでした。
しかし、この時点の聖書研究の成果によるキリストの誕生年は今日から見て不正確なものなので、今日見られるような4年から7年程度のずれの原因になりました。
ただ、一度決まった起点の年を、不正確な計算だからと言ってカレンダーを後で修正するとことは不可能です。仮に狂信的なキリスト教信者たちが「イエス様の誕生が実は4年早いのに不正確な暦を使っているのはイエス様を冒涜していることだからもう一度来年を2015年にしろ! しないと世界を核兵器で破壊する」というような脅迫を行って、それに屈した世界の国々でカレンダーを4年前に戻すようなことが実行されたら、同じ年が2度来ることになって大混乱になることは目に見えていますよね。
それに毎年の復活祭の日付を決めることに比べたら誕生年はあまりキリスト教徒にとって信仰上重要な問題ではないので、西暦が世界に広まるととも、その誤差も日本や中国のようなキリスト教信者の少ない国も含む世界に広まっていったのです。

コンスタンティヌス1世が決めた12月25日

 ここまでイエスが生まれたのが紀元1年に決まった経過について書いてきましたが、12月25日になぜ決まったのかというと、これは、先に325年にコンスタンティヌス1世が招集した第1回ニケア公会議の中で復活祭の日付が決定されたと書きましたが、それと同時にクリスマスイエスの誕生日も12月25日と決定されました。
ここで同じ第1回ニケア公会議で決定された日程なのに復活祭は「3月21日から満月の日を過ぎたあとの最初の日曜日」と月の運行を元に決められている移動祝日であるのに対して、クリスマスは12月25日に固定されたのかという疑問を持たれる方も多いと思いますが、実はこの違いはキリスト教の起源に深くかかわる問題に根差していて、それだけでも長い話になるのですが、最近日本でも復活祭もイースターという名称で祝われるようになってきたので、それについて書くときに触れることにして、ここではなぜ12月25日にクリスマスを祝うようになったかということだけ触れておきたいと思います。
といっても、もともと聖書にイエスの誕生日に関する記述もないことがあって、12月25日に決まった明確な経緯は分かっていません。ただ確実なのはこの12月25日はもともとキリスト教以前にローマ帝国領内で広まっていたミトラ教という宗教の重要な祝日であったことです。
ミトラ教は太陽神ミトラを崇拝する古代ペルシャ起源の宗教です、ミトラは毎年冬至の日に生まれ変わるとされ、12月25日はそのミトラの生まれ変わりを祝う日でした。
やがてミトラ教はキリスト教に押されてヨーロッパ世界から姿を消していくのですが、コンスタンティヌス1世がキリスト教を公認した時点ではまだ強い勢力を持っていて、キリスト教信者の母を持ったコンスタンティヌス1世もミトラ教に信頼を寄せていました。それで聖書には書かれていないイエスの誕生日を12月25日に無理やり確定することでミトラの生代わりにイエスの誕生を祝うというミトラ教徒との一種の妥協が成立したのです。このコンスタンティヌス1世の妥協はキリスト教の普及にとって後々大きな成功を収めることになります。
ミトラ教は主に中東や地中海沿岸に広まっていたのですが、ゲルマン人やケルト人など今日のドイツやイギリスや北欧諸国に住む北方民族のキリスト教以前の宗教にも冬至を祝う行事があり、12月25日をイエスの誕生日として祝うことはキリスト教への妥協として容易に受け入れられやすかったのです。こうしてクリスマスはキリスト教の行事としてヨーロッパ諸国に広まっていきました。
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